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145.尖閣問題で開いたパンドラの箱

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インターネット・メディアの端くれとしての立場から、いたずらにこの件を語りたくはない。
政治は語るまい。外交も我々の専門ではない。
が、この事象がインターネットのポジションを大きく左右することは事実だ。逃げるわけにはいかない。

我々は「天晴」と、今回の事件を捉えている。
日本も、捨てたもんじゃない。
不甲斐ないのは上に立っているように見える人たちだけだ。中心は腐っていない。それを受け止めて不必要に騒ぐこともなく、冷静だ。
この国の活動スタイルは、これでいい。これが新しい自己主張のスタイルだとすれば、どの国よりも洗練されていて、美しい。

とともに、私たちひとりひとりは、さらなる責任と判断力の必要性を認識しなければならない。
クリックすることの意味を。アップロードすることのパワーを。
コンテンツの裏にある意図を読む洞察力を。

誤解を恐れずに言えば、この国においてインターネットと携帯電話の普及を強力に推し進めたのが、1995年の阪神淡路大震災と、オウム真理教に関する事件だったように思う。少なくとも、私は周りはそうだった。
悲劇の朝、人々はむさぼるように掲示板を読み漁った。そしてインターネットが目指していた「非常事態にもつながることを目指したネットワーク」が機能していることを体験として知り、現場に最も近い情報に息を呑んだ。
携帯電話を持つのを躊躇していた私が、何とも言えない不安感に背中を押されて契約したのが1995年の夏。直接の関係がなかったとしても、私のような思いでモデムを買った世帯、携帯電話を手にした人たちは少なくないのではないか。

その後もインターネットは世界の事象を受け止めた。アメリカ同時多発テロも、オバマ氏の大統領選挙も、リーマンショックも、ネットはつながることを見せつけた。オリンピックやワールドカップのような祭典よりも、突発的に起きる事件にこそ、メディアは大きく成長する。ビジネスと利権で何重にも鎖につながれてる場所は、まだマスメディアの方が価値を持っているように見える。

そして、今回の事件である。
ジャーナリズムは特等席を失った。待っていれば届いた匿名郵便は、もう来ない。世にメッセージを発する場所に選ばれたのは、マスコミが疎み嫌っていた場所だった。
評論家の言葉も意味を成さない。彼らが思うようなコメントは、すでに市民によって無数につぶやかれている。
削除要請を嘲笑うコピーの増殖。もはや犯人を捜すことさえが無意味な無法地帯。

政治は犯人探しに血眼になるだろう。いや、仕立て上げるかもしれない。
犯人が見つからないことは「許されない」のである。この手法で逃げ切れることが現実になれば、今までの統制方法が崩壊する。

世界もこの状況を注視しているはずだ。自由主義の大国の米国も。常に不安材料を抱える中国も。常に革命が繰り返されているような小さな国でさえ、この新しい市民行動のスタイルをどうコントロールしなければならないのか、に。
今の日本の政治に、世界でもっとも困難なこの不等式への解を出すのは不可能だ。 そんなことはすでに国民も世界も見抜いている。だからこそ、自由漂流した結果がどうなるのかを、世界が見ている。

こんな新しい時代が、もっとも政治が成熟を越えて衰退に向かっているように見えた日本ではじめて起きたことが、極めて象徴的だ。
私たちは、強力な力を手にしてしまった。銃を持つよりも、投票するよりも強い、アップロードする力を。
私たちは、気づいてしまった。テレビや新聞というマスメディアで知る編集されたコンテンツよりも、リアルな現場のメッセージの方がパワーを持つことを。
クリックが、ペンを駆逐する。

だからこそ、少しでも早く手にしなければいけないのは、情報を判断する力と、自らの手にあるフォースの行使方法である。
もう、誰も教えてくれない。自己判断で情報の裏にある意図を読み解かなければならない。
いたずらにこの力を使えば、批判は何倍にも増強して返ってくる。たくさんのフォースの中で、埋もれたくないともがくことも増える。流れを作ろうと画策するものも増える。
日本人が苦手とする「自己責任」の世界が、そこにはある。
何が真実か。何が正義か。何がしあわせか。
決めるのは自分自身であるということを、時代が求めている。

こうしてInformation Ageから、Intelligence Ageへの時代が開くのだろう。
まだまだ、人間は未熟だ。

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