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2278.報道比較2015.7.4

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感情が挟まれた記事は見苦しいが、感情がゼロの行動は人を動かせない。ギリシャも安全保障も冷静さが失われてきた。

Wall Street Journal
ギリシャが学ばなかった教訓=ウィルバー・ロス氏 (2015.7.3)

古代ギリシャは民主主義を生み出したかもしれないが、現代のギリシャは今にも「カオス」(混沌)に陥るかもしれない。ギリシャでは債権団が提示した最新の救済条件の是非を問う国民投票が5日に実施されるが、急進左派連合(SYRIZA)率いる連立政権が繰り広げる愛国的レトリックは全て、真実をぼかす危険性がある。つまり、国民投票での反対票は、ユーロに対する反対票であり、ギリシャの将来に対する反対票になるのだ。現在、ギリシャには手元資金が残っていない。最後の頼みの綱として、ギリシャ政府は欧州中央銀行(ECB)からの890億ユーロ(約12兆1700億円)の緊急流動性支援(ELA)に頼っている。国民投票で反対が多数となれば、ギリシャ向けにさらなる融資が提供される可能性が低くなるだけでなく、銀行に預けられた預金が戻ってこないこともほぼ確実となる。銀行各行は現在、預金者1人当たり1日60ユーロの引き出し上限でさえ、数週間以上持たせることが困難だ。ギリシャが最初に救済を受けた際に合意した改革を、もっと迅速に実行しなかったことは残念だ。もし実施していたら、リセッション(景気後退)がもっと早く終結していた可能性がある。そうすれば、国民投票で反対多数となった場合に引き起こされる深刻な不況ではなく、今ごろは繁栄を取り戻しつつあったかもしれない。国民投票で反対多数となればギリシャ経済は崩壊し、債権団によるこれまでのどの提案よりもずっと多くの困難を引き起こす。そしてその痛みは何年も続くことになる。そうなれば、同国の銀行であるユーロバンク・エルガシアスに投資している私の損失も打撃を受けるが、ギリシャの国民が感じる痛みに比べれば取るに足りない。ギリシャ国民は国民投票での反対多数から生じる恐怖を経験する余裕はない。反対票は愛国的行動ではなく、経済的自殺行為だ、としている。

Financial Times
ギリシャの有権者が迫られる難しい選択 (2015.7.1)

ギリシャは独り立ちしてうまくやっていけると思えば、きっとプログラムに反対票を投じるだろう。しかし、そのような確信は持てないかもしれない。ギリシャが通貨主権を賢明に行使できるのであれば、恐らく現在のような状況には陥っていないからだ。逆に、もしプログラムに賛成票を投じるとしたら、そのプログラムがまだ交渉のテーブルに載っているかどうか分からないまま投じることになる。分かっているのは、もし投票で「イエス」の方が多くなったら、ギリシャは数年に及ぶ支出削減と不況の時代に直面するかもしれないということだ。だが、それでもユーロ圏離脱後のカオスよりはましかもしれない。今度は「ノー」という結果について考えてみよう。その場合は2つの展開が考えられる。1つは、正真正銘のユーロ圏離脱である。ギリシャ政府は新しい通貨を導入し、ギリシャの法律に基づく契約すべてを新通貨建てに切り替える。2つ目の展開は、政府が支払い不能になりながらもユーロ圏に残留するというものだ。すると、ECBが緊急融資を再開するのか、するとしたらどの程度の規模になるのかが大きな問題になる。筆者には、これは魅力的な選択肢に見えない。政府の全面的なデフォルトという傷ができるところに、通貨同盟の一員になることの問題をすべて背負うことになるからだ。それなら、「イエス」に1票を投じる方が間違いなくいいだろう、としている。

国民投票を決めたあたりから、ギリシャ問題は金融ではなく政治に変わった。人々の意見にギリシャ国民の価値観や感情が中心になってきた。政治問題になるほど、債権団は立場が悪くなる。貸したカネも戻らなくなる。冷静さを欠いた時から、ギリシャに優位になってきた。当然だ。返せないカネの話が「働かないから。怠け者だから。貸したカネを返せない人の態度ではない」の議論に移したら、追い込んだのは債権団だと思い知る。
風向きの変化を、アメリカやロシアは冷徹に見ている。金融問題なら部外者だが、政治や安全保障になれば言いたいことはある。結局、最後に折れなければならないのは、ギリシャ国民だけでなく、債権団も道連れになる。場合によっては、ヨーロッパの政治が揺れる。カネで揉めているうちに、相手を嫌いになり、殴りたくなった。冷静に考えればバカな話だ。感情が入り組めば、さらに問題は長期化、悪化する。もう、そこに一歩踏み込んでいる。

産経新聞・社説
米軍事戦略と日本 「中国」直視した抑止論を

米軍の統合参謀本部は4年ぶりに改定した「国家軍事戦略」で、中国を米国の安全保障を脅かす国の一つと位置づけ、南シナ海での人工島建設など中国の活動が「アジア太平洋地域の緊張を高めている」と非難した。中国にどのように対処していけば、日本の独立と平和、国民の生命財産を守れるのか。基本的人権や民主主義、国際法を尊重するアジア太平洋地域、ひいては世界の秩序を保てるのか。これらは日本の安全保障上の最重要課題であるにもかかわらず、政府や与野党は正面から論じ合うことを避けてきた。中国の急速な軍拡や南シナ海進出の戦略的意味合いと、それへの日米の対応策を具体的に語らなければ、突っ込んだ国会論戦に発展しない。もどかしさは募るばかりである。安保関連法案をめぐり、過去の憲法解釈などに拘泥した議論をしているときではない。日本と国民を守るための国会論戦をこそ、心がけてほしい、としている。

毎日新聞・社説
安保転換を問う 維新の対案

安全保障法制をめぐり野党に動きがあった。維新の党は政府案の対案をまとめ自民、公明、民主3党に提示、近く国会に提出する方針だ。対案は集団的自衛権の行使を容認する政府案の根幹に関わる内容であり、議論に値する。国会に提出するのであれば徹底的な審議を要求し、憲法違反と指摘される政府案の問題点を正していくべきだ。維新案は朝鮮半島有事の際に邦人を輸送する米艦が攻撃された際の自衛隊による反撃も個別的自衛権で対応できるように読める。一方で政府案が想定する経済危機を理由とする中東・ホルムズ海峡での機雷掃海のような活動は理論上不可能となる。自民党の対応も問われる。首相はこれまで野党に「責任野党」として建設的な論戦を展開するよう、ことあるごとに強調していた。実際に対案が出ても真剣に検討しないのでは、最初から聞く耳などなかったと取られても仕方ない。「違憲法案」への批判に耳を傾けるべきだ、としている。

読売新聞・社説
維新安保対案 民主は批判しかしないのか

維新の党が、安全保障関連法案の対案を自民、公明、民主各党に提示した。来週、国会に提出することを検討している。対案は、米軍が攻撃され、これにより日本への攻撃が発生する明白な危険がある「武力攻撃危機事態」に限って、事実上の集団的自衛権の行使を認めている。国民生活への影響なども総合的に勘案する政府案の「存立危機事態」よりも要件が厳しい。米軍以外を防護対象にしないことを含めて、切れ目のない事態対処という観点では不十分ではないか。一方で、維新は、日本の安全保障環境の悪化を踏まえ、朝鮮半島有事における米軍防護などを可能にし、抑止力を高める必要性を認めている。この問題意識が与党と一致していることは重要だ。疑問なのは、民主党の対応だ。4月にまとめた党見解は、「安倍政権が進める集団的自衛権の行使は容認しない」とする一方、行使自体への賛否は留保している。集団的自衛権の行使の典型例である米艦防護の必要性を認めるのか。認める場合、どういう論理と法律で可能にするのか。少なくとも、こうした重要な論点に明確な見解を示せなければ、野党第1党の責任は果たせない、としている。

案を出す。それだけで維新の会は十分に仕事の半分は終わった。評価も高まるだろう。批判だけの国会が変わるだろうか?その可能性だけでも維新の会の姿勢はすばらしかった。民主党はこれでまた格を下げた。まったく仕事をしていない。
安倍氏も良く使う、産経の論理はノーだ。危機が迫っているから急いで決めていい、判断を変更してもいいことにはならない。そして、そこまでの危機にあるなら、その情報公開が先だ。昨年、内閣がとった集団的自衛権への解釈変更という前例が、現政権の信頼を損ねている。去年から、じっくりやるべきだった。2年かければ、私たちも正しい手続きで憲法を考えたかもしれない。昨年の方が中国との関係は悪く、危機感は高かった。事を急ぐと、こうなる。同じミスをまた繰り返そうとしている。

朝日新聞・社説
報道への威圧―陳謝でも消えぬ疑念

自民党議員らによる報道機関を威圧する発言について、安倍首相はきのうの衆院特別委員会で「非常識な発言だ」と認め、「心からおわびを申し上げたい」と述べた。憲法は、表現の自由、言論の自由を保障している。非公式な会での発言であっても、戦前の言論統制につながるような発言は看過できない。党総裁として首相の陳謝は当然である。自民党が、2012年の政権復帰前に発表した憲法改正草案を読み返してみよう。草案は、一切の表現の自由を保障した現憲法に「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動」は「認められない」との例外をつけ加えている。首相は大西氏らの発言について当初、「私的な勉強会で自由闊達な議論がある。言論の自由は民主主義の根幹をなすもので、尊重しなければならない」と述べていた。だが、表現や言論の自由は、権力の介入から守られるべき個人の基本的権利であり、権力者が振りかざすものではない。ましてや、誤った事実認識をもとに他者を誹謗中傷していい権利では決してない。首相はきのう「報道の自由を守るのが私たちの責任だ」と語った。今後は、それを行動で示さねばならない、としている。

朝日が突っかかる立場にいるのは判る。書いてあることも一般の感覚。だが…わずかに違和感がある。それが朝日の持つ感情だろう。感情はコンテンツを通して確実に伝わってくる。朝日新聞が安倍政権へ抱いている抵抗感が、この自民党議員の発言の裏にあった感情に似ている。私たちが抵抗を感じる感情を朝日新聞自信も持っていると認識できるのが、違和感の原因だろう。報道機関が出す社説としては、もう少し冷静さが欲しい。

日本経済新聞・社説
多様な試みを支援してこそ地方創生だ

政府は地域ごとの産業構造などを分析し、地域経済を「見える化」するデータを自治体にすでに提供している。かつてない試みだ。自治体はデータを参考に政策の優先度を見極め、効果を検証できるようにしてほしい。地方に本社機能を移す企業を税制面で支援する改正地域再生法が今国会で成立した点も評価できる。まちづくりや地元企業を支援するために専門人材の確保などに努める点も時宜にかなっている。一方、気がかりな点もある。使い道の自由度が高いはずだった新型交付金に様々な制約がついた。人材育成などで先駆的な取り組みや従来の政策では対応し切れない隙間を埋めるような事業などに限定するようだ。国の補助金をもらえるからと土地を造成して工業団地を整備したものの、売れ残って四苦八苦した自治体がどれだけ多かったか。政策の狙いは間違っていなくても、政府が音頭を取って旗を振るようなやり方は望ましくない。岡山県真庭市や島根県海士町など、地方創生のモデルとして注目を集めている地域は、創意工夫を重ねて独自の対策を積み上げている。身の丈にあった多様な試みを政府が側面支援してこそ、地方創生は成果をあげる、としている。

私は日経の意見にも反対。地方に権限を委譲して予算だけ与える方が結果はひどいことになると思う。意識すべきは責任の所在と事業計画だ。事業に失敗したら、一般企業なら責任を取らされる。みんなのおカネを使って失敗するのだから当然だ。もちろん給与は支払われるが、相当の評価ダウンは否めない。それが挑戦の対価だ。公務員の挑戦は、いつもこの最後の責任のリスクを軽減するために莫大な努力をしている。そして、平気で失敗する。公務員は失敗するとつぶしが効かないと言うのなら、やはり公務員は挑戦などする資格がない。その責任の管理の甘さが問題視すべき点ではないだろうか。

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