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2053.報道比較2015.1.9

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日本国内、海外も含めて、すべてフランスでのテロ一色に。こんなことは3.11以来ではないだろうか。思想の衝突がさらに混乱を巻き起こさないといいが…

Financial Times
仏紙襲撃、地元出身のジハード主義者の「報復」 (2015.1.8)

フランス当局は何カ月も前から自国領土への大規模なテロ攻撃を恐れ、警告を発してきた。中東で戦うイスラム主義勢力に参加する大勢のフランス兵士と過去の殺戮事件から、当局者は懸念を募らせていた。フランソワ・オランド大統領は12人が撃たれて死亡したパリ中心部の現場を訪れ、即座にこれはテロ攻撃だと断定し、「疑いの余地はない」と述べた。すぐにイスラム過激派に疑いがかけられた。シャルリエブドは下品な風刺画で他の宗教とともにイスラム教を繰り返しバカにしてきた。何年も警察に警護されている同紙のオフィスは過去に、紙面でイスラム法をちゃかした後に火炎瓶を投げ込まれたこともある。襲撃の性質は、欧州の治安責任者の間で懸念を煽ることになるだろう。欧州のある治安当局者によると、襲撃に関与した犯人が1人ではなく、残虐行為が自動小銃で行われたという事実は、高度な計画と協調を暗示しているという。シャルリエブドでテロリストたちが名前を挙げて個人を探したとする初期の報道は、詳細にわたる準備がなされたことを示唆している。動機が何であれ、折しも極右政党の国民戦線(FN)が世論に大きな影響を持ちつつある時に、衝撃的な殺害事件は必然的に政治的な不安を引き起こすだろう、としている。

Wall Street Journal
神への冒瀆、イスラム社会では極刑に相当―仏襲撃事件で脚光 (2015.1.8)

フランスの週刊紙シャルリー・エブドなどが掲載してきた預言者ムハンマドの風刺画に対し、西洋諸国では長らく「表現の自由だ」とか「品がない」など、さまざまな評価が下されてきた。ただ、宗教裁判が行われていた時代の欧州のように、イスラム諸国では現代でもこうした風刺画が神の冒瀆(ぼうとく)に当たるとされる。これは極刑に値する犯罪で、イスラム教以外の世界では理解しがたいほどの殺人的な激情を誘発しかねない。サウジアラビアやイラン神権体制では、神を冒瀆した者に死刑が科される法律が厳格に施行されている。こうした極度に厳しい国だけでなく、イスラム世界の大部分では信仰や預言者を風刺することは重大犯罪とみなされている。パリのど真ん中で風刺画家が銃殺される理由を理解するには、イスラムと西洋の歴史的・政治的衝突と考えるだけでは不十分だ。日常の振る舞いを規定するイスラム教とイスラム法が、大部分のイスラム社会生活の中で支配的な役割を果たしているという単純な事実もある。西側のキリスト教徒は数世紀前にこうした状況から脱却したが、社会生活を支配する度合いは以前のキリスト社会よりもイスラム社会の方が強い。サウジのような道徳警察の設立を目指したエジプトの著名なイスラム伝道者、ヒシャム・アルアシュリー氏は、今回の銃撃を批判している。冒瀆の容疑者は適切なイスラム裁判を通じて罰せられるべきで、我が物顔で法を利用する一般人によって罰せられるべきではないと考えるためだ。ただ、多くのイスラム教徒と同じく、アルアシュリー氏もシャルリー・エブドに対しては「自らを責めるしかない」と述べている、としている。

朝日新聞・社説
フランス週刊紙襲撃―言論への暴力を許すな

フランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」のパリの事務所が武装した男たちに襲われた。発行人のステファン・シャルボニエ氏ら編集幹部や、記者、風刺画家ら12人が殺害され、多数がけがを負った。この新聞は、刺激的な風刺画で知られ、反権威、反権力の立場を鮮明にしている。近年は、しばしばイスラム主義を批判したり、揶揄したりした。イスラム教徒らの反発を招いていたのは確かだ。貧困や専制政治などによる社会のひずみから、イスラム世界には過激思想に走る者が一部いることは否めない。だが、圧倒的多数の人々は欧米と同様に、言論の自由や人権、平等などを尊ぶ社会の実現を望んでいる。パリだけでなく、欧米各地の主要都市で多くの人々が連帯の集会を開いているのは、心強い反応である。この悲惨な事件を、共生社会の建設に向けた議論が広まるきっかけへと、転じたいものだ、としている。

産経新聞・社説
仏紙銃撃テロ 表現の自由は揺るがない

イスラム教の預言者ムハンマドを登場させた風刺画などを掲載したフランス週刊紙シャルリー・エブドのパリの本社が襲撃され、編集長ら12人が殺害された。捜査当局によると、犯人らはフランス生まれのイスラム教徒とみられる。国際テロ組織アルカーイダや「イスラム国」の過激思想に共鳴していたようだ。信教に関わる問題では、侮辱的な挑発を避ける賢明さも必要だろう。だが、漫画を含めた風刺は、欧州が培ってきた表現の自由の重要な分野である。テロの恐怖に屈し、自己規制してしまってはテロリストの思うつぼだ。フランスをはじめ欧州には多くのイスラム教徒移民が暮らす。過激思想に染まった、そのごく一部への反感がイスラム教徒全体の排斥につながらないような、寛容な社会であり続けてほしい、としている。

日本経済新聞・社説
表現の自由へのテロは断じて許されない

表現の自由に対するもっとも卑劣な形のテロ行為である。パリにある風刺週刊紙「シャルリエブド」の本社に押し入った男らが銃を乱射、記者や漫画家、警察官ら12人を殺害した。フランスは8日を服喪の日とした。私たちも犠牲者に哀悼の意を表すとともに、一刻も早い事件の解決を願う。また、表現の自由を破壊する行為はけっして許さないことをあらためて確認する。欧州には多数のイスラム系住民が暮らしている。半面、各国で反イスラム感情や移民排斥の動きが強まっているのが気がかりだ。フランスも、旧植民地の北アフリカからの移民を中心にイスラム教徒は人口の8%、約500万人に上るといわれる。一方で反移民を掲げた極右政党「国民戦線」が勢力を伸ばし、経済の低迷も亀裂を深める要因になっている。事件がその傾向に拍車をかけ、世界で文化・宗教間の「不寛容」がはびこることを懸念する。政府は訪日外国人を昨年の1300万人から2020年には2000万人に増やす目標を立てている。テロの脅威に対処しつつ、さまざまな文化、宗教への理解を深めることが日本には求められている、としている。

毎日新聞・社説
仏週刊紙襲撃 憎悪あおるテロを断て

政治家や聖職者らの風刺画で知られるフランス週刊紙「シャルリーエブド」のパリにある本社が、自動小銃やロケット砲で武装した2人組の男に襲撃され、編集長や風刺画家ら10人以上が死亡し、約20人が負傷した。30歳代の兄弟とみられる容疑者は車で逃走し、運転手役だったとみられる18歳の男がその後、警察に出頭した。男らはイスラム過激派の影響を受け、この週刊紙がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載していたことに反発し、テロ事件を起こしたとの見方が強い。「宗教への冒とく」に対する抗議としてテロという卑劣な暴力に訴えるのでは、イスラム教への偏見を強め、社会の分断と憎しみをあおるばかりだ。気がかりなのは最近、ドイツなどでイスラム教を敵視する数万人規模のデモが相次ぎ、一部ではイスラム教徒との衝突が起きていることだ。一方、イスラム系移民の2世や3世が欧州社会での疎外感から過激思想に走る傾向も強まっているという。戦後の欧州が重視してきた寛容の精神が、今回のテロによって一層揺らいでしまうことを強く懸念する。「イスラム国」のような過激勢力やテロ行為には、国際社会が結束して立ち向かう必要がある。対立を克服し、憎悪と暴力の連鎖を断たなければならない、としている。

読売新聞・社説
パリ新聞社銃撃 表現の自由に挑戦する蛮行だ

武装グループがパリの政治週刊紙の本社で自動小銃を乱射し、編集長ら12人を殺害した。捜査当局は、アルジェリア系フランス人の兄弟を容疑者として特定し、関係者を身柄拘束した。容疑者は事件現場で、「預言者の復讐だ」などと叫んだという。2005年にデンマーク紙が掲載したムハンマドの風刺画を巡っては、イスラム諸国で抗議デモが相次ぎ、流血の事態に発展した。今回の事件は、新聞社を狙った計画的な犯行であり、従来の抗議とは次元が異なる蛮行と言えよう。オバマ米大統領ら各国首脳は犯行を非難した。安倍首相も「いかなる理由であれ、卑劣なテロは許せない」と表明した。懸念されるのは今回の事件が、各国でのイスラム教徒を巡る社会的な軋轢に拍車をかけかねないことだ。欧州各国は、穏健なイスラム教徒の孤立を回避し、社会的共生を進める努力が求められよう、としている。

海外紙と日本の新聞で、微妙にニュアンスが異なる。日本の新聞のがいつものように理念や思想に偏っているようにも見える。日経の危機感は適切で正しいだろう。1000万人以上が日本に訪問してくれている現在、私たちは外国語を話せないどころか、文化の一端さえ理解していない。理解した方がいいということに気づいてさえいないかもしれない。それは大いなる危機だ。
北朝鮮とアメリカでトラブルになっている映画にも、似たような部分がある。暴力や攻撃が許されないのは必然だろう。人として、法がなくとも成立する大前提だ。だからイスラム教徒の人でさえ、標的になったメディアを支持すると表明する人もいる。どれだけ口喧嘩をしても、手を出したら負け。「なのになぜ戦争は許されるの?」とこどもに訊かれると、どんな大人さえうまく答えられないのだが、怒った時にこそ、過激な人たちには理解してほしい点だ。
もう一方の視点を、その倍の言葉を使って言いたい。相手が不快に思うものを好きなだけ放出していいのが「表現の自由」だと言うのなら、怒りが生まれるだけテロは終わらない。風刺は、今風に言えば炎上マーケティングの極みだ。表現で相手を貶め、攻撃して注目を得ようとするのだから、自主規制を自らに課す方が、より良い表現者ではないだろうか?通常、風刺や評論をやる時には、暗黙のマナーがあり、私は忠実に守っている。それは、攻撃するときは、明らかに相手が自身より強い立場にあること。指摘は総論ではなく各論に限ることだ。宗教を攻撃する風刺や、国家元首を暗殺する映画が、新しい価値観の提示ではなく、ただのジョークやマネーのために行われ、それが「表現の自由」になる社会のがおぞましい。海外紙が冷静なコラムを書いている理由はそこにある。ジョン・レノンやチャップリン、ボブ・ディランが愛された理由は、彼らがした批判や攻撃が痛快だったからではない。新しい価値観を見出したからだ。相手が怒ることや、話題を煽ることを目的にした「表現の自由」とやらを守るために、誰もが攻撃される不安を許容しなければならないのだろうか?

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